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障害者の講演会で聞いた話の意味が今になってわかってきたって話

もう10年以上も前の話になるが、とある身体障害者の講演会みたいなのに行ったことがある。障害を持っているがゆえに一般の人達と同じような生活をおくることができないその人達の本音が聞けると思ったからだ。

 

僕の友人でも身体に障害抱えていて車いすでしか行動できない人がいるが、面と向かって毎日どのような生活をしているのかは聞いたことがない。ただ、年に数回はあって話をしたりするので、その会話の中でちょいちょい出てくる色々な話だったりを聞いたりすると、きっと僕が抱えている悩みなんかゴミみたいなレベルで、その人達はもっと大きな悩みを抱えているんだろうなと想像することができる。

 

話しはずれてしまったが、その障害者の講演会では、障害を持っていても幸せであるという話をしていたことが印象的だった。何故幸せなのかというと、その人は他の障害者と比べてまだできることがたくさんあるからだという話だった。10年以上も前の話のことなので記憶が定かではないが、記憶が正しければその方は体の一部がなかったんじゃないかと思う。足とか腕とか。そういった不自由さを抱えての生活でも、幸せを感じることができ、その幸せを感じるためにはそれでもできることがあるんだということを実感することらしい。

 

僕は講演会の帰り道で、その人の話を思い返していたが、納得できていなかった。なぜならば、その人の話は上を見る話ではなく下を見る話のように聞こえたからだ。自分は体の一部がないが、世の中にはもっと不自由な人がたくさんいて、その人達に比べれば自分はまだ幸せな方だと。これってのは自分よりも不自由な人と自分を比較することで幸せを感じる方法なんじゃないかと。これは例えば、いわゆるワーキングプアの人たちが、働きまくっても将来が安心できるほどの賃金を得ることはできないが、ホームレスよりはマシだよね的な感じで幸せを感じるのと同じなんじゃないだろうか?

 

世の中は狭いようで広く、世界を見渡せば色々な生活がそこにあって、場合によっては信じられないような生活だってあるだろう。だからといってそれと自分を比較することで幸せを感じるというのは、なんかが違うんじゃないのか?そう思っていた。でも今日、その人が話していることの意味がちょっとだけわかってきた気がする。それは、ないものに対して頭を悩ませてもしかたがないので、だったらはじめから考えないようにしているんじゃないかと思った。そこを真剣に悩んだからといって自分はその問題を解決できない。だとしたらそのことは考えずに、その状態であってもできることをやろうとしているんじゃないかと思った。

 

僕は自分のことを貧乏だと思っている。でもはっきりと他人と比較したことがないので、どれだけ貧乏かはわかっていない。ただ自分でそう感じているだけだ。旅行にホイホイと行くような銭はないし、たまの外食は松屋すき家。移動手段は主にチャリンコだし、珈琲はスターバックスではなくてマクドナルドの100円のコーヒーだ。

 

こんな状態の僕が、「カネさえあればラーメン屋を開いたり美容室を開いたりできるのに」なんてことを思っていても時間の無駄だ。なぜならばカネがないからだ。もちろんどうしてもそれらのビジネスがしたいのであれば、成功するであろうプランを立てて出資してくれるような人を探すことは今の時代ならば可能なのかもしれない。しかし、カネがないことをグダグダと悩んで何ひとつ前に進めないよりは、今あるものを使って幸せになる方法を考えることだって出来るんじゃないだろうか。

 

たぶんこれは前回のエントリぐらいで書いたことかもしれないが、今僕はネットに繋がる環境が有り、パソコンが有る。例えばこの2つで何できることはないだろうか?それはブログかもしれないし、YouTubeに動画をアップすることかもしれないし、もしくはネットサービスを自分で立ち上げることかもしれないし、オークションを利用した商売かもしれない。

 

とにかくこんなふうに今あるもの、今のままでできることから始められるものに脳や時間を使うことは、今を一生懸命生きるという意味では正しいことなのかもしれない。まぁそんなことを思ったという話でした。お疲れ様でした