死恐怖症を克服するために今自分に出来ること

イケスムです。調子こいてまたブログを更新し始めました。理由は、脳内にあるモヤモヤをセンテンスという形でアウトプットすればスカッとするかなと考えているからです。

 

今回は、死恐怖症を克服するために、今僕が出来ることについて書いてみたいと思います。今自分に出来ることは何か、結論から言うと死ぬことに慣れる事だと考えています。

 

死ぬことに慣れるなんて、ちょっと変な考え方なのは理解しています。だって人間は1回しか死ねないわけだし、だとしたら慣れるなんてことはあり得ないからです。しかし疑似体験はできると思っております。なので疑似体験を積み上げていくことで、慣れていくことは可能なのではないかと思っています。そして慣れてしまえば、死ぬことに対してさほど恐怖を感じなくなるのかなというのが今の僕の考えている事です。なぜならば、慣れちゃってるから。

 

さてここでみなさんが「ふざけんなよ、くだらない話を読むためにクリックしたんじゃねえぞボケ」と思って今まさにこのブログのページを閉じようとしている光景が思い浮かびますが、もう少し読み進めてください。僕は、死ぬことに慣れると言うことに対して、根拠なしに書いているわけではございません。一定の根拠見たいのがあるからこそ書いています。その根拠となるのが、人は若い人よりも死が近づいているお年寄りの方が死に対して恐怖心が少なくなると言う事実があるからです。

 

人は歳をとった方が若い人より模試に対する恐怖心が少ないと言うのは、僕の実体験ではありません。この話は、僕が「あれ?僕ってひょっとしたら死恐怖症なんじゃね?」と思い始めた頃、色々と読み漁って出てきた話です。確か医者みたいな人の話が元となっていた気がしますがはっきりとは記憶しておりません。ただそこには事実としてそう言う実例が存在するみたいなことが書かれていて、そうであるとすれば年をとるにつれて様々な人間の詩を見てきたであろうお年寄りは、若い人と比較して死に対して慣れている可能性があるのかなと思いました。従って、慣れてしまえば恐怖心も減るんじゃね?と言うのが、死ぬことに慣れようと考えるようなった理由です。

 

では具体的に、どうやったら死ぬことに対して慣れることができるのでしょうか。それはきっと、自分が死ぬ存在であることを常日頃から考えることだと思います。それは侍のように、死場所を求めて生活をするとかそういった意味ではありません。そこまでハードに考えるのではなく、やんわりと良いので「俺は死ぬんだな」と言うことを常日頃から考えるわけです。今僕はiPadでブログを更新していますが、今この瞬間も「俺は数秒後に死んでいる可能性がある」と考えるといった感じです。

 

とは言え、実際に実感を持って考えることができているのかと言うと、そんなことはないと思います。例えば大病を患い余命宣告をされた人と自分の浅い考えでは、そこには運例の差がある筈です。なぜなら僕の心の中には、「人生100年時代ならまだ50年以上生きれる」と言う考えがあるからです。この考えがある限り、余命宣告をされた人と同じように考えるなんてことは無理だと思っています。

 

しかし、無理だからとできない理由ばかりを述べていても死恐怖症から逃れることはできません。なぜならば、何も行動を起こさなければ、何も変わらないからです。従って、死に対する恐怖を克服したいと思うのであれば、克服するために何か少しでも行動を起こさなければならないと思っておりまして、現状僕ができることは死ぬことに慣れることであり、そしてそれは自分が死ぬ存在であることを想像し続けることだと思っています。

 

最後になりますが、死恐怖症のことをここに書くことで、色々と調べインプットし、さらにアウトプットができることから調べることが楽しくなっています。ひょっとしたら誰かが目を通してくれるかもしれないと考えると、ブログをアップするためのやる気にもつながるんじゃないかと思っています。